あわらの旅路

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あわらの旅路

概要

あわらの旅路は、あわらの最後の国民放送(星環823年)からあわらの金武州移住(星環833年頃)までの約十年間、あわらが各接続世界を巡って空白と余白の記録を見て回った旅である。旅の期間中のあわらは組織に属さず、雑誌連載と知能王への参加を除けば、記録の現場に立ち会うだけの立場を取った。この旅が、あわらが金澤の闇を「後から失われた記録」と見分けられるようになった理由とされる。

旅の始まり(星環824年)

最後の国民放送の後、あわらは拠点を離れて旅に出た。きっかけは、「国民的マリオという役割を返す」と宣言した手前、旧来の立場に留まり続けることができなくなったためとされる。あわらは旅先で見た記録を雑誌「ReNew」「one」の連載として発信した。

星環824年は交差創作記録の整理が始まった年であり、あわらは週刊ネットニュースの初期協力者として、整理作業の記録班に立ち会いを続けた。この時期、あわらは夜行列車図書館(星環824年、全路線開通)や燐光レコード店(同、開店)を訪れた記録を残している。

福岡の戦争に応じなかった十年(星環824年〜831年)

星環824年から826年にかけて第三次福岡戦争が勃発したとする見方があるが(説)、あわらが参戦した記録はない。あわらの旅の記録には、次の言葉が残っている。

「私は福岡を名乗る戦争にはもう出ない。私ができるのは、終わった戦争の記録を残すことだけだ」

あわらは第三次福岡戦争(説)に距離を置いた。この姿勢は星環829年に勃発した第四次福岡戦争でも同じであり、あわらが再び戦争に参加した記録はない。

接続会議と最終陳述(星環827年)

星環827年7月、星環827年接続会議が開かれた。あわらは旧世代の証言者として招かれ、最終陳述を行った。詳細は当該ページを参照。

復興計画の立ち会い人(星環828年〜832年)

星環827年接続会議の後、星環828年から832年の復興計画が始まった。あわらは復興計画に参加する立場にはならず、各記録の現場に立ち会う「立ち会い人」として関わった。

あわらはこれらの現場で一貫して「空白を急いで埋めないこと」を求めた。最初から空いている空白(白紙)と、後から失われた記録(欠番)を分けて扱うべきだという考え方であり、この十年の旅で固まった思想とされる。

旅の終わり(星環832年〜833年)

復興計画が完了した星環832年、あわらは旅の記録の総括を始めた。総括の最終章で、あわらは金武州の古都・金澤に言及している。金武州には州内最古の都市とされる金澤があり、記録の歴史を追ってきたあわらにとって、最後に残された「見ていない記録の土地」だった。

星環833年頃、あわらは金武州へ移った。詳細はあわらの金武州移住を参照。

記録方針

  • 旅の具体的な経路は、雑誌連載に残る記録の範囲では断片的であり、全体像は未詳として残す。
  • 第三次福岡戦争(説)への不参加は、参戦記録が存在しないことによる。

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関連する記録

あわらの金武州移住星環833年頃、あわらが金武州へ移り「金系あわら」として活動を始めた出来事。旅路の総括として古都・金澤を選び、金澤の闇の最初期の証言者の一人となった。あわらの最後の国民放送星環823年に行われたあわらの退場宣言。国民的マリオ時代の終焉を告げ、「国民的マリオ」の称号を返上した出来事。あわらの死あわらの死は、星環840年代に金武州の古都・金澤で、あわら(金系あわら)が亡くなったとされる伝承である。正確な年月日・場所・経緯はいずれも不詳であり、三つの類型が併記される(説)。あわら生存説の終焉あわらは死んでおらずどこかで生きているという生存説が、死体の発見により終焉した経緯。OpenMarioBook世界 / あわらの死KURU近現代マリオ史における最重要人物の一人。ツルツルページからの離脱を経て週刊ネットニュースに加入し、第二次福岡戦争の中心人物となった。あわら週刊ネットニュースの初期協力者。星環815年下半期にツルツルページから転向した。

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