終電前スタジオ
終電前スタジオ
終電の12分前だけ開くレンタルスタジオがある。
それは、賑やかな繁華街の地下深く、あるいはもう使われていない古い地下鉄連絡通路の奥深くにあるとされるが、正確な場所を記した地図は存在しない。 ただ、どうしても伝えきれなかった感情や、取り返しのつかない後悔を抱え、冷たい夜風のなかで立ち尽くしている音楽家にだけ、その扉(重い防音扉に手書きで「終電前」と書かれたプレート)が視界に入ると噂されている。
独自の利用規則
スタジオに常駐している、言葉数の少ない初老のエンジニア(常に微かに煙草と雨の匂いがする)は、利用を希望するアーティストたちに一つの、そして絶対のルールを告げる。
「今日、いちばん言えなかった言葉を、歌詞の中に必ず混ぜること」
どのようなジャンルでも、どのような楽器構成でも構わない。ただし、録音のチャンスは**「完全なワンテイク(一発録り)」**のみである。 歌が擦れても、ギターのコードを間違えても、ドラムのリズムが少し走っても、エンジニアは決してミキサーでその「ミス」を修正・カットしない。むしろ、その不完全な瞬間にこそ、スタジオのスピーカーからは、まるで見えない観客からのような、温かみのある拍手の音がノイズに混じって重なる仕様になっている。
メトロノームが止まる時
スタジオの12分間は、壁に掛けられた古びた振り子式のメトロノームが刻むカチ、カチという音によって支配されている。
演奏が終了し、終電を告げる遠い振動が足元から伝わってくると、エンジニアは黙ってそのメトロノームを手で止める。その瞬間、スタジオ内の空気は静まり返り、ミキシングボードから出力された完成音源の入ったカセットテープ(または剥き出しのCD-R)が静かに吐き出される。
そして、その瞬間に初めて、その音源に書かれる**「その日の即席のバンド名」**がエンジニアの手によってラベルに記入される。 バンド名は、その夜、アーティストが口にした「最も言えなかった言葉」から自動的に抽出され、決定される。
これまでに記録された伝説的なバンド名と音源の噂
- 『あと3分の沈黙(Band)』 / 曲名: 「改札口での嘘」
- 『傘を持たない君へ(Band)』 / 曲名: 「天気予報、外れてよかった」
- 『削除済の連絡先(Band)』 / 曲名: 「返信を待たずに眠る」
音源を受け取ったアーティストたちは、スタジオを飛び出し、夜の冷たい夜風のなかを全力で走る。 駅の長い階段を駆け上がると、ちょうど最終電車のドアが開く。乗り込んだ車内、ガラス窓に映る自分の顔は、スタジオに入る前よりも、ほんの少しだけ軽くなっている。
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