交差創作_月光水族館と粗品世界線
満月の月光水族館で、展示番号S-44が公開された。 水槽の名札には、淡い光でこう記されている。
「粗品世界線における、まだ発見されていない“やさしさ”の標本」
青い照明の下で、その標本は魚の形をしていなかった。 誰かが送信直前で消した労わりのメッセージ、 返事を書きかけて閉じたメモ帳の余白、 不器用ゆえに笑うタイミングを逃した沈黙── 現実世界の粗品が決して見せることのない、あるいは見せる機会のなかった断片が、透明な群れになって泳いでいた。
観覧メモを取っていたのは粗品世界線_未確認個体報告書の編纂員だ。 彼は佐田悠仁のような分身たちの凶暴性や奇矯さを記録するいつものペンを止め、ページの端に、小さく書き添えた。
「敵対個体なし。代わりに、全個体の根底に流れる“ためらい”が確認される。 この世界線は、まだ修復できる可能性が高い。変異は、防衛本能の裏返しだったのかもしれない。」
閉館間際、館内放送が流れる。 その声は、どこか雨粒観測所の館員の声に似ていた。
「本日の最終展示は、あなたが見落としてきた優しさです。」
ぼくはガラス越しに、自分の横顔を見た。 そこには確かに、昨日言えなかった一言が、粗品-0001〜1747の誰かが流したかもしれない涙のような粒となって浮かんでいた。
出口で学芸員が手渡したのは入館証ではなく、 反響区の夜明けの小さな切り抜きだった。 そこには殴り書きでこうある。 “観測だけでは世界は変わらない。再生ボタンを押せ。あるいは、ドアを開けろ。”
帰り道、ぼくは一通だけ、短いメッセージを送った。 「遅くなってごめん。元気? また飯行こう。」
水族館の水面が、遠くでひとつだけ跳ねた気がした。 それは、新しい個体の誕生ではなく、一つの和解の音だった。
月光水族館 | 粗品世界線 | 粗品世界線_未確認個体報告書